2011/04/29
■ [ファンタジー]自分はいかに『シルマリルの物語』を読んで面食らったか part3
どんな人間や共同体にもにも利害の対立する相手、あるいは性情や思想信条はどうしようにも噛み合わない相手が存在する。そういうわだかまりの落とし所の最良な所は、常に彼我の力関係や交渉次第によるもので一律に片付く物ではない。特に古今東西の歴史を見てみれば、その妙味が本質であることは自然と分かってくるはずだ。
その枠組みの中で、基本的にあらゆる身分や立場のものは自分の利益を最大限に確保することに執心する。利他や道義を説いたり実際にその筋通りに動くこともそれが最終的なスコアを高めることに繋がることを、無意識にせよ意識的にせよ狙っているために過ぎない。もちろん個々人の感情や信念がある事を決して否定はしないが、歴史というマクロの視点はそれらも一個の属性以上に扱わないし、なまじそれを抱いて判断を損ない、滅ぶことに対してもやはり中立的な視点をおくものである。
この突き放した視点は、歴史という概念の古代的な祖先である神話の中でも大抵再現されているもので、どんな道義に添った人物でも別の道義の前に滅ぼされる話は枚挙に暇がない。そこの無常さを一つ受け取った上で、人は各登場人物に悲喜こもごもを感じる訳である。フィクションで歴史や神話を作るにしても、その相克関係は登場人物の真摯さを高めるために肝心なものとなる。スターウォーズシリーズのようにあるいは宇宙の原理として善悪がはっきりしていても、そこが守られていれば全く問題はない。
さて、もしここまで語った前提が崩れればどうなるか。この突き放した視点を持たず、常に一定の勢力に対して何らかの超自然的な力の寵愛がある。のみならず、この玄妙な解決策の模索が必要はなく、同じ善い勢力と悪い勢力がおおよそ二分された構図を持っていても、常に悪の帰属がおおよそ単純明快な所にまとまっているため、「そいつらさえいなければ大半の問題は解決するんだ」ということが決まりきっている世界である。こうなった瞬間、全ての真剣な問題や課題は滑稽劇と化す。そこに筆致の表面上、いかに一定の人物が善良で同情できる側面を持ち、偽りの無い愛があって、時に悲劇的な終わり方を迎えたように描こうとも、ハリボテと化すのである。
トールキン教授はモルゴスを常に力に溺れる上に心の底でおびえている臆病者、フェアノールの一族もやはり力に溺れる上に血気に逸る愚者とはっきりと作中に断じて、その行動を常に負の側面だけで描いた。それが結果として、それと対峙するベレンとルシエンの試練の度合いを貶め、美談を霞ませることに繋がるのである。
のみならず、その系譜を見ればいい。多少の断絶や紆余曲折はあれ、ベレンとルシエンの子孫はアラゴルンに至るまで常に直系、万世一系に受け継がれ、方やもう一つの尊きエルフの血、フェアノールの血統は孫の時点で中つ国の歴史から抹消されるのである。なるほど、そんな物語は各国家や民族が語る一つの「史観」としてはいくらでも主張しても良いものであるが、世界全体の業を限りなく突き放して見ようとする「歴史 」としては余りに薄い。少なくとも、そこに世界を丸ごと生み出そうという志向たる「ハイ・ファンタジー」の原型ではあっても、元祖とか、本家といえるまでの評価を置くことができるかは、大いに疑問を抱かざるを得ない面すら感じる。
前回より間を置いた上に、各談ごとの連携がいまいち出来てない気もするが、言いたい事は一通り言い切ったので、この辺で終わりとしたい。もし全て読んで頂いた方がいたなら、ともかく無条件に感謝。