2013/12/05
■ [ファンタジー]初代アンパンマンはヒーローなのか
そのころ、アメリカの大きなビルの屋上で「世界マンガ主人公かいぎ」がひらかれていました。 スーパーマン、バットマン、吸血鬼といった連中がマンガの品性を高めるために話しあっていた のです。スーパーマンがふいにたちあがってゆびさしてどなりました。 「みろ!諸君。またニセモノだ。あんなうすぎたない奴のためにわれわれまで悪口をいわれる」 みあげるとふとっちょのアンパンマンが汗だくでとんでいました。 みんないっせいに「ニセモノおっこちろ」とさけびました。 『十二の真珠』より『アンパンマン』
やなせたかし氏が亡くなって以来、必然として作品の評価が出回ってくる。なので、自分もその成り行きで至った見解を一つまとめておきたい。
「愛と勇気だけが友達」という意味深であるような、あるいは単に歌詞の拍子あわせだけに取った歌詞に何を求めるべきかはとやかく言わない。真剣な議論も、単なるジョークや揶揄もどちらもあって構わないと思っている。フレーベル館の絵本もアニメ版も本質的に子供の童話以上でも以下でもないのだから、各人その限りで憧憬なり、少年期の通過儀礼としていくばくかの否定なりを持てばよい。
自分はといえば、高校時代に往年の朝目新聞や侍魂で流行ったような調子に乗っかって、アンパンマンの世界がまるであっけなく、エボラウイルスやペスト菌の擬人化に滅ぼされるような短編漫画を描いていたことがあるドゲスである。今思えば例え皮肉をこめるにしても浅慮だったとは思っている。
さらに、つい最近の艦これブームで↓のような作品をきっかけに認知したばかりであるから、余計に高校時代にやったことの決まり悪さは否めない。(もうやらないかというと、思うことはまだ以下の通り、色々あるが)
現実に存在したやなせたかし氏の弟さん、特攻隊員として戦死された「柳瀬千尋中尉」について、ネット上では回天の人員だったという話が流れているが、本当は震洋であるという伝聞なども細々聞いており、何分資料ややなせたかし氏自身の証言まで、まるで全容は把握しきっていない。
そしてまだその程度の認知でもあるから故に、
本当の正義というものは、けっして、かっこいいものではないし、 そして、そのために必ず自分も深く傷つくものです。 そういう捨て身、献身の心なくして正義は行えません。 正義の超人は本当に私たちが困っている飢えや公害などと 戦わなくてはならないのです。 アンパンマンは焼け焦げだらけのボロボロのこげ茶のマントを着て、 恥ずかしそうに登場します。 自分を食べさせることによって飢えている人を救います。 それでも顔は気楽そうに笑っているのです。 子どもたちはこんなアンパンマンを好きになってくれるでしょうか? それともテレビの人気者のほうがいいですか? -やなせたかし-
やなせたかし氏の訃報から出回っているこのメッセージ出典が正確に何処なのかも知らない。恐らく氏の著作の論説そのままか、いくばくか改変を加えたものと思える。一通りネットから出典つきで見て回った氏の引用など総体するに、コピペとして張る人間の意図や評論も混じった上で、一通り氏の見解であることに変わりはないのだろう。
そういう重い背景は前提として知っておかねばならなかった。しかし、その上でアンパンマン、特に原型となっている『十二の真珠』収録のアンパンマンについて、自分はなお否定的にならざるを得ない。
コピーの内容はもっともだ。現実に英雄と呼ばれる人間の実像でも、創作で提示されるヒーローでも、その煌びやかな側面が本質の一部に過ぎないというのは、それこそ今更何を言ってると嫌になるほど語りつくされてきた話題である。アンチヒーローという用語も昔からあるわけだ。
例えば日本の戦前からのヒーロー像、黄金バットは、その完全無欠な強さの一方で、その飛びぬけた強さと容貌から、不気味さと畏怖ある存在として仕上がった。
スーパーマンは日本ではしばしば押し付けがましい正義のステロタイプに見られがちではある。しかし一方で、彼が普段新聞記者クラーク・ケントとして働く地味な側面の、同じく最初期から存在する構図については、どれ程日本で言及されているだろうか。
バットマンは、スーパーマンの同年代以来から、成人向けコミックとして描かれた構図がある。だからゴッサムシティの繁栄と内部に潜む狂気、バットマンとヴィラン達の表裏一体性に関するテーマが、それこそアニメ版アンパンマンよりも以前の1940年代~50年代、日本との戦時中から確立していた。
さて、それから下って1968年に書かれた初代『アンパンマン』の中でそんな彼等が何故か吸血鬼に混じり、ついでにわざわざビルの屋上(ウェイン・エンタープライズの本社ビル?)に(ジャスティス・リーグか何かで?)集まっている。そして、アンパンマンを見かけて言い出したのが先頭の引用である。↓がその挿絵。
汚いジャスティス・リーグだなあ。失望しました那珂ちゃんのファンやめます。
戦場の貧困を救うためにアンパンを配るだけのヒーロー、それは大いに結構なことだ。それが空を飛ぶ能力しか取り柄がなく醜い容貌だからと言って、作中の通りアイスが欲しいとだだをこねる先進国の子供に構われないからっていいじゃないか。好きにやればいい。各作品を正しく知っていれば、例え彼等がアンパンマンに対して非協力的ではあり得ても(スーパーマンとバットマンですらしばしば原作で対立してる訳であるし)こんなレベルの低いやっかみをつける理由がないのだ。
ウェイン・エンタープライズの筆頭株主としてアメリカの福祉にも現実的に貢献しているバットマンことブルース・ウェインや、老人福祉問題について精通する新聞記者、スーパーマンことクラーク・ケントが何故わざわざ、後ろ指を指して罵倒する必要があるのだろうか?心底どうでもいいことだろう。アンパンマンに悪意なぞ持ちようがない。ジャスティス・リーグの結成とて、世間体の目的などなく、単に自分達の手で解決しなければならない問題を克服するためだ。
あるいはこれをさらにメタに解釈できる、邪推できる要素はそれこそ幾らでもあるだろう。「ジャスティス・リーグ」というシリーズの興行的側面。1960年代にアメリカのコミックが内容面の規制を受けていた背景。あるいはやなせたかし氏が持っていたと思しき反米意識。当時の時点での各アメコミの繁栄と彼自身の作家としての売れ具合…
それがどうであれ、複刊ドットコム版でたった6ページしかない「アンパンマン」のわざわざ1ページを割いてこの描写は成された。大衆に迎合する下劣なヒーロー様を(他人の褌を引っ張ってきて)描き、それを通じて弱く、醜く、ついに正義に死んで殉じたアンパンマンの「ほんとうの正義」()を殊更に強く描こうとした。この構図は全く拭い難い。もしネットで主張される通り、このアンパンマンが氏の弟、柳瀬中尉がモデルというなら、却って居たたまれなく思う。
だから自分が思うに、この初代アンパンマンはやなせたかし氏の原風景ではあるが、同時に作家としての黒歴史である。フレーベル館の絵本やアニメ版のようにやはり子供の童話以上でも以下でもない形に変質させていったのは、アンパンマンという作品の良し悪し以前に、作品として成立させるために、全く正しい変化だったといえるだろう。
昔から、美しくもなく、下手すると強くすらない異形の英雄は現実にも創作にもあった。醜かろうが弱かろうが英雄になりえる道理はある。しかし、醜くて弱いことそのものに正統性を主張したとき、どう弁解しようが、それは一気に卑小なものになる。
自分は初代アンパンマン自身よりは、そんな文脈で書かれてしまった、そして見られてしまうために、初代アンパンマンにヒーローとしての本質を感じない。最後のページ、高射砲に打ち落とされたけど、きっと生きてるよ。で片付けられた話の挿絵、飢餓にある子供の横でともすればドヤ顔をしているアンパンマンにもしかめっ面をせずにいられないのだった。