2013/02/11
■ [ファンタジー]「懐古」的聖典の「昨今」の善悪事情
ビオ略のNetHack関連雑記「善悪なんてもともと存在しないんだよ。秩序混沌の方はあるけどね。」より引用
日本語で「善悪」という言葉を使うとその定義はあまりにも 抽象的であることを逆に利用して、そんなものはもともと 存在しないとか、定義を曖昧にする「思考停止キャンペーン」に 走ろうとする動きが多い。
英語のGood/Evilと日本語の「善」「悪」の間に語源的定義の差はあるだろうが、英語の方が具体的になっているのかどうかはそもそもはっきり良く分からん。が、ビオの人の脳内ではそういうことになっているらしい。
例えば、安手の神話かぶれのRPGやFT漫画などに、「善」の性質が あまりに強いとやらの理由で、異教になびく危険性を少しでも示した 村人を虐殺する「天使」などが頻出する。ゲームにおけるGOODの定義 にあてはめると、これはたとえアルコン(ここではLAWFUL-GOODの天使 を指す)であっても決して起こることではない。 たとえかれらが従う「法」が「処断を行わなくてはならない」という 結論を要求してくる法であるとしても、その「法」だけに従い、 村人への思いやりという「良心」を無視するならば、それは絶対にGOODではない。 もちろん、人間のLAWFUL-GOODなどであればGOODよりもLAWFULの方を重視する者 などもいるであろうが、アルコンは「LAWFULとGOODの両方の属性において極限」と 定義される存在であり、GOODをそれほどまでに明らかに軽視することはありえない。 (なお、真にLAWFUL-GOODのアルコンがこういう村人をどうするかといえば、 単に殺す必要のない解決策を探すという当たり前の解答が出て来るだけの話である。)
いつまでも終わらない『Bastard!』のことかー、もしれないが、とりあえず例によって的外れに国産ファンタジーをこき下ろしてるノリには昔からうんざりである。別に海外キリスト教圏の倫理観まですっぽり学んで、教条的にファンタジーを作る必然性など全くないだろうに。
少なくとも日本人の我々の眼からすれば、そういう『普遍的な善』を提唱している者の現実が、古くは十字軍だったり、最近だとイラクだったり、シーシェパードだったりする訳で、そういう物を横合いから見て来た立場として、懐疑的なテーマを盛り込む事は何らおかしなことではない。(勿論キリスト教に限らず、他の宗教でも普遍的な善の提唱と現実がどんなものかは皆様ご存知のはずである)
当の海外、それも系譜的にはビオ略の絶賛する指輪的世界観の別の継承者であるウルティマですら、とうの昔に4~6で、二元論に懐疑する世界観を築いている。結局、二元論を重視しようと、懐疑しようと、作品の質を分けるのはそれを筋道立てて各々の作品のメディアとしていかに書ききれているかに分かれるのであって、「安手」のものだけ引き出しにして話を進めるのは単なる藁人形を叩く行為に過ぎない。
題名の通りの本題としては、ここからになるが、例えばD&D3.5版のサプリメント『高貴なる行いの書』|などでは上方次元界の「善」の極致的存在である、セレスチャル、ガーディナル、エラドリンといった住人達は、秩序-混沌の属性差があっても、互いを尊重し、相争うことは決してないということが明記されている。この辺は下層次元界のデヴィルやデーモンのように秩序-混沌枠どころか、全く同じ属性同士ですら(一種合理的な)権力抗争を繰り広げるのとは対照的であり、確かに極致の例としてはビオ略の通りになっている。
だが、一方でD&D4版のサプリメント『ドラコノミコン:メタリック・ドラゴン』によれば、こんな事も書いてある。
3. 善のドラゴンでさえ恐ろしい敵になりうる。 この世界の善にその身を捧げている強力なメタリック・ドラゴンでさえ、 英雄キャラクターに脅威を与えうる。善のドラゴンはなんらかの場所やアーティファクトを 守るために、太古の誓いを果たすために、もしくは強大な悪を阻むために、英雄の グループを滅ぼそうと考えるかもしれない。 彼らは長命であり、自惚れと思い上がりに満ち溢れているため、ドラゴンは下級クリーチャーに とって厳しい選択を行なったり、多数の幸福のために少数を犠牲にしたりしても、 ほとんど気にしない。ドラゴン族が真に同情するのは極めて稀なことなのだ。
常に恩着せがましい態度を取る すべてのドラゴンは極めて高尚な自説を有している。彼らがかたじけなくも弱いクリーチャーと 会話して下さる場合、自分はなんて寛容なんだろうとドラゴンは考える。そして彼らが会った者 たちは自分の注意を引くことができたことを嬉しく思うに違いないと期待する。 ドラゴンと会話した人型クリーチャーはその名誉に対して深甚なる感謝の意を示すのが良い。 メタリック・ドラゴンは自身に対する賞賛が単に歌われるのみならず、大音声で触れ回って 欲しいと考えている。彼らが追認を必要としているのは、自信がないからではなく、 箔をつけたいからだ。 メタリック・ドラゴンが人間を支配したり捕食したりするのを控える場合、自身の真の本能に 反する選択を意図的に行なう。そのため、狩ったり日常的に食べたりしないという贈り物と 引き替えに、人型クリーチャーはメタリック・ドラゴンを褒め称えるべきであると、 彼らは信じている。一部のドラゴンは他でもない完全な崇拝を期待している。
ドラゴンはそりゃアルコンと比べりゃそんなものだろうと言う人もいるかも知れないが、基本的に善竜バハムートとその系譜をたどる全てのメタリックドラゴンはそれこそクラシックD&D初版の頃から設定されてきた、押しも押されぬ善玉サイドの一つである。その頃から描き方が大分変わっている可能性もあるかもしれないが、少なくとも最新版、そして属性が9属性から、秩序-善-中立-悪-混沌とさらに二元的になった世界観の中で善の最大勢力の一つの輩が基本こんな風に定義されているのである。
双方のサプリメントでそれぞれに描かれた善の実相の内、どれを実際の卓で適用するかはそれはGMとプレイヤー達の好みに分かれる訳であり、例えばシナリオ的なガチさを求め、善について極めて困難な見極めを要するようになれば、そこには必然懐疑的なテーマも出てくるだろう。少なくともD&D公式ですら、完全に揺ぎのない「普遍的な善」をご立派に体系づけて提唱しきっている訳ではなく、「自由」としてユーザーに託していることになる。