2011/06/10
■ [読書][小説][ファンタジー]ワードナの逆襲
ピカレスクなファンタジーを語るのに多分この辺は欠かせまいと思って、小説版を購入してみた。
基本D&DなどのTRPG的文脈が日本以上に浸透している海外では、Wizardryのようなシリーズはどちらかと言うとパロディやウィットなギャクの入り混じったものと見なされるらしい。他方日本の場合はTRPG的過酷さをWizardryから初めて見出すファンも多いことから、本編も、それから展開されるサイドストーリーも、しばしばシリアスに再構築されることが多い。
この手塚一郎版『ワードナの逆襲』もその一環と言える。原作ゲーム中では、トレボーの亡霊に追いかけられ、アンデッドの手下を敵プリーストにディスペルされ、数々の罠に翻弄される、「しんのゆうしゃ」のごとく死にまくる宿命にあるワードナを、敢えて完全無欠の悪の権化に書き換えることで、Wizardryのシリアスな側面を強調したい狙いは明らかに見られた。
ただそれが成功しているかというと、個人的見解としては部分的なものに留まっている気がする。ドリームペインターと対峙したガーゴイルのコンプレックスと破滅、ラストのワードナがカドルトの神像と対峙する時など、簡潔にして重い描写には来るものがあったのだが、序盤の守護者達の立場語りにはちょっと冗長なものを感じた。この手の話に付属するセックス&バイオレンス要素が自分は大好きなのだが、ちょっと話の中枢に伴わない所で煩雑にばら撒き過ぎている嫌いがあってか、何となく食傷になりがちだった。
一番気になったのは、大司教ギズィのような法と善の立場にあるという者(無論この作品の枠組みの中では、とんでもない偽善者として糾弾されることになるのだが)を卑小に書き過ぎていることか。
原作中のブラックユーモアに満ちた世界の限りでは、プレイヤーの代理人として散々な目に合うワードナに比して、カント寺院の坊主達をひたすら間抜けで生臭に書いても別段問題ないと思われる。だが、この作品のようにワードナを強大な悪そのものと描いた場合、やはりそれと対峙するカントの僧侶や、カドルトの神にも一定の重みを与えてやるべきではなかったか。
カント寺院が金の足りない信者達を「はいきょうしゃめ!」と追い立てるような彼等にも、しかしそれなりの現実的な善性があり、それが信徒達の救いになっていたかも知れない。ドワーフの司祭ギスカなどがその辺の善性を匂わせていたが、まだちょっと足りない気がする。偽善に対するシニカルな描写ばかりでなく、もっと鮮烈に善の効用を強調する。するとどうなるか。そんな彼等の救いたるカドルト神に向けて「真実のカリス」を掲げて滅ぼし、救い主が作り物に過ぎないという真実を彼等に見せつけ、アミュレットを〈混沌〉に返すために略奪して去っていく、そんなワードナの邪悪さと酷薄さがさらに際立ったのではあるまいか。
この辺の話は、これまでも何度か語ってきたトールキン批判と表裏一体なもので、モルゴスやサウロン、サルマンの人格やその暗示する悪の要素を憎し憎しと卑小に描いたばかりに、必然的にそれと対峙する善の価値も損ねてしまっている嫌いと逆な話である。善悪正邪の命題的対立のどちらかに軍配を上げるにせよ、片方をもろい藁人形にしてしまうと、どうしても勝利者の価値も損なわれてしまうのである。
ここまで書いておいて何なのだが、それでもこの小説版は買って読んでおいて正解だった。趣味的な贔屓もあるかもしれないが、自分の書きたいもののアプローチのためには欠かせない多くが、ともかくにもまた勉強できたからだ。