2011/05/26
■ [*band][ファンタジー]善の乖離と撞着性について
ビオ略の人のNH系雑記「善悪なんてもともと存在しないんだよ。秩序混沌の方はあるけどね。」
ビオラインリードの人の記事は、前々から古典FTやTRPGについての道しるべとして何度となく参考にしてきてはいるのだが、同時に何やら物申したくなるような言質が多い。大分前にちょっとネタにした件に続き、数年も前の記事に今更ながら反駁してみる。
正直、2chのスレで何気なくいった一言の揚げ足取るように「思考停止」呼ばわりしたり、「安手のFTの売り手や受け手」とか吐き捨てるよりは建設的な話が出来るはずだ。少なくとも、どうしてそんな誤解が生まれ得るのかを真面目に分析しない限りは、ビオの人が本来そうしたいのであろう、本当に「善」をファンタジーで表現することの肝心さとか、具体的に表現すべきかを他人に納得させることは出来ない。少なくともやってる事の方向性が、戒律に背く人間を殺戮する天使と変わらないだろう。
ファンタジーが結局のところ現実から虚構の要素を積み上げて、形成されていく物である以上、各人がファンタジー作品を愛好する要因は、自分の実体験や風聞に基づく。だから、セム系一神教の善悪感とは大抵無縁の所に育つ我々日本人が、そういうテーマをふんだんに盛り込んでいるナルニアや指輪物語が本来意図する所とは異なった解釈をしたり、脱構築的な扱いをするのもある意味では必然的であるし、それに忠実でないからと言って精神性に劣るような言われ方をする筋合いはない。
本来「良心と思いやり」を持ち、「他人を傷つけることなど決して考えない」はずの善が、そういう誤謬にまとわりつかれるのも何の事はない。結局のところ、善がそれを維持していくためには、しばしば悪以上の暴力行為があいまいでなく、善悪関係のない所で実際に行われているからに他ならない。
これは現実の世界でも無論そうだが、指輪物語のようなそれをなんとしてもひけらかしたい作風の中ですらそうである。個人的にどうしても理解できないことに、やたら熱心な指輪の愛好者はそれに気づかないか、わざと見逃している風にしか思えない。
善悪の構造は、善が力をふるって悪をほろぼす少年雑誌の図式に依らない。 善の側はガンダルフを代表として想像力に富むのみで、魔力はなく、悪は制御 しきれぬ支配欲にかられて自滅する形をとり、…
これは指輪物語の旧訳者、瀬田貞二が『夢見る人々』の中で指輪を端的に表現したものであり、ビオ略の人も*band私家版用語集の中つ国の項目で取り上げ、同時に自分の気に食わない「少年誌」をこき下ろしている訳だが、しかし実際、シルマリルと指輪はどうなのか。
忍耐強い忍耐強いとナレーションでこそ、必死に弁明しているが、結局のところトゥルカスはメルコール以上の腕っ節で彼を叩きのめし、イルーヴァタールは、ヌメノールごとアル=ファラゾンの軍勢を沈め、アイゼンガルドの塔をエント達が叩き壊し、ガンダルフの毒舌な皮肉の攻撃性はある意味でサルマンより熾烈である。そして、最後の戦いダゴール=ダゴラスの時に至るまで、最後はトゥーリンのメルコールに対する復讐で締めくくられるのである。彼等の行為を「綺麗な暴力」で片付けることができるのか?
この図式は善=光=優秀=美、悪=闇=劣等=醜が奇妙なまでに一致した世界の中で、余計に浮き彫りになる。そして同時にさらなる胡散臭さを醸し出すのに一役買うのだ。その結果、我々の間でファンタジーといえば輸入してきた指輪や古典TRPGではなく、それを根っこにしながらも、独自のCRPG的な世界観になった。後者がしばしば前者に対するアイロニーやパロディを繰り返してきたのも、つまる所その胡散臭さに耐えられなかったからだろう。質はピンキリあっても、その方向性に後ろめたさを感じる必要はないのだ。
無論、善を描くことも決して悪くないし、それをうまく表出させた作品は海外にも日本にも山ほどある、ウルティマの中でもⅣ、Ⅴ、Ⅵの三部作は、善を体現することの基本的な方向性、嵌りがちな陥穽、そして複数の善が止揚してさらなる高みに上る所をテーマにして、それをゲームシステムに見事織り込んだ。旧スクウェアの名作、LIVE A LIVEはそれこそ、真の結末にたどり着くのに必要なのは、悪への止めでなく対話であったことを、先に言うような胡散臭さをなしに、ただ主人公達の個人的体験からの一言で表現した。
こういった醸成が「安手のFT」にも存在している事に言及せず、ただ古典を有難がっては、自分が愛好する作品と共に勘違いをされても仕方ないのではあるまいか。