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SikabaneWorksが関係するコンテンツ(主に*band系ローグライク)の開発近況・補足から全く個人的な雑記まで。

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2011/05/21

[ファンタジー]孔子とガンダルフ、現実と幻想

 タイトルからして何事かとは思われる。まず、実在の人物と架空の人物であるし、文化的背景も全く別物になる訳だがそれも包括した話を進めたい。

 孔子とガンダルフには、半ば伝説の絡んだ人物像とトールキンが求めた人物描写について、奇妙に一致する点が多いと思う。なまじ古代中国思想の祖師や開祖になる人物には、異様な箔付けの物語が施されるだけに、その幻想性が指輪物語的なケレン味とかなり近しく歩み寄っている。

 一方の中つ国第三紀も、時代的モチーフとしておよそ青銅器〜鉄器時代が技術的にも政治的にも円熟した所に、数々の幻想を加えたものと言える。そのため、現実という地についている描写で、意外にも対比して見ることが可能になる点が多い。

 その上で、彼等にはどのような共通点があるのか。まず第一に彼らは、共に途方もない理想と使命に燃えていた。かたや周代初期の治世であり、かたや神々ヴァラールの願う中つ国の平安である。第二に彼等は結果論として、庇護しよう、導こうとする国家や共同体に長く定着することはなく、大抵は助言者の立場に留まっていたこと。第三に、生まれた事情は異なるとは言え、共に諸子百家やイスタリという、思想信条的にはしばしばライバルと言える存在がいた点である。そして第四として何よりも、第一で語った己の理想とするところを実現させるためには、良かれ悪しかれ自他共に厳格で、それを阻害しようとする者と妥協することを決して良しとはしなかったその性情である。

 近松門左衛門の説く「虚実皮膜」とも言える物語的枠組みの中で、かたや現実の人物は幻想に近づき、かたやトールキンは幻想を限りなく真実たる何かに近づけたいと願った。そして孔子とガンダルフそれぞれの結果はどうであったか。

 かたや、「泰山崩れんか、梁柱砕けんか、哲人萎れんか」とその生涯が挫折に終わったことを明確に口にして終わった。自分の掲げる理想が政治と結びつくまでには孟子や荀子の代までを待たねばならず、しかもそれすらも常に現実の蹉跌や萎縮した形骸とひたすら戦い続けなければならなかった。また老荘思想といったライバルや、それぞれに徹底したリアリズムである法家や孫子のような存在と常にせめぎ合いながら、現実の歴史が続いていった。

 かたや、5人のイスタリの中で唯一使命を成し遂げ、しかも思想信条的に最も根本的なライバルであった、まさに法家と孫子のリアリズムを徹底していたサルマンは、その物語そのものに一切の業を否定され、悲惨な末路を辿った。どうあれ、己の掲げた中つ国の平安は、「自由の民」が全て一致団結する形の元に一片のほろこびなく成し遂げられ、最後に灰色港を通じて、アマンという名の西方浄土で祝福されることが明確に描かれた。

 両者の違いは結局のところ何であるのか。この物語的文脈について言及する場合において孔子とガンダルフのどっちが優れていたとか、教導される中つ国の民が、古代中国のそれより特別に善良であったとかどうこうで考えても意味はない。

 ただ、孔子の方は、儒家がその開祖を理想的に描きたかったとは言え、歴史的な結果までを捻じ曲げて語る訳にはいかなかった。また孔子には当然のことながら、己自身や、ついてくる弟子などの「人為の味方」しかいなかった。それゆえに、孔子の存在は歴史に実在した人物であること以上に、一種の地についた人物として物語になりえた。

 そして、ガンダルフには(イスタリという中つ国の基準においては「ヒトの身」とそうそう変わらない立場であるとわざわざ断っている一方で)、ナルヤという力の源が与えられた。神代の力を失わぬ大鷲やエントがいた。まるで指輪を滅ぼすために生まれたようなホビットという種族がいた。ましてや命を落とそうが、「ヴァラールをなお超える力の導き」で白のガンダルフとして復活した。これらの存在があることで初めて、善は勝った。そのことでトールキン教授は善が普遍的に勝ち得るのだという「願望」を「真実」のように語りたがった。現実はそうとは違うとわざわざ後書きで書いていながらである。

この時点で指輪物語にも、シルマリルの物語にも虚実皮膜は失われ、幻想はただの幻想に終わった。歴史ではもちろんないし、神話とも言い切れない。残ったのはつまるところ「開き直った逃避の文学」それだけである。

[D'angband/開発]D'angband製作日誌11

へけけ。

Aho