2011/05/01
■ [ファンタジー]トールキンの「逃避の文学」の本質はなにか
逃避という言葉を誤用する人びとが好んで「現実」と呼ぶもののなか、ふつう逃避は明らか に役に立つし勇敢な行為ですらあると思う。実生活でなかなか逃避はいけないと言いにくい し、むしろ逃避に失敗する方が多い。だが、文学批評においては逆に、逃避の物語として優 れているほど評価は低いようなのだ。 これは言葉づかいに間違って、頭も混乱している。自分が牢獄にいると気づいた人間が外に 出て家に帰ろうとしたからといって、なぜ軽蔑されなければならないのだ。脱獄できない場 合、看守や監獄の壁以外のことについて考えたり、話したりしてなぜ悪い。外の世界が直接 が見られないからといって、囚人にとって外の世界が存在しなくなるなんてことはあるはず がない。 こんなふうに批評家たちは言葉を間違って使う。そもそも言葉の選び方をまちがってたうえ に、さらに自由を願う脱獄者と脱走者の逃亡をわざとごっちゃにする。これではまるで政党 スポークスマンと同じだ。独裁者ヒットラーの帝国やほかの帝国でも、苦痛のあまり亡命し たり政治批判をしただけで、裏切り者のレッテルを貼られたのと同じではないか。 おなじやり口で、批評家連中はもっと混乱させて相手を侮辱してやろうとする。脱走者の逃 亡だけでなく、真の〈逃避〉とその仲間である〈嫌悪〉〈怒り〉〈非難〉〈抵抗〉まで十派 一絡げにして、物笑いの種にする。囚人の脱獄を脱走者の逃亡とごっちゃにするなんて、愛 国者のレジスタンスより売国奴の味方するようなものだ。それなら愛する祖国が裏切り者を 黙認したり褒めたりするようになってもいいのか、といってやるしかない。 J・R・R・トールキン『妖精物語の国へ』(杉山洋子訳)
概して比喩表現というのは諸刃の剣で、事を非常にすんなりと人に理解させる究極の近道になりえる一方、いらぬ誤解を招いたり、あるいは自分の弱点や表に出しがたい本性を馬脚に出してしまうことがある。
トールキン教授は特に指輪物語中において、その効用の良い方をガンダルフに、悪しき方をサルマンに押し付けようと躍起になっている節を感じるが、実際のところそれは同一の物に過ぎないことを見過ごしてはいないか。トールキン教授と同じように疲れ果てた人間には、この調子に対してしばしば同情的になりえる。しかし、自分に言わせればこうだ。
世の中は常に混沌としていて、最初から彼らの身の回りに己を縛るものでもなければ自由にするものもない。逆に言えば無数のものを少なからず選択して、引きずり出して身につけられる混沌を浮かんでる中で、自ら牢獄や鎖を選んで、それで自分が囚人だと思い込んでいる。
それだけなら勝手にしていればいいのだが、それを尻目に混沌から自分の望むもの引き出したり、あるいは意図外のものを引き出しながらもそれに親しんでいる者達に大して、馬鹿だとか鈍感だとか独裁者の手先だとか、挙句売国奴などと、まるで検討違いの罵倒をしているに過ぎない。一番性質の悪い被害妄想に陥っている証拠だ。
最後に至っては(よりによって自分の作品に寓話的要素がないと重ねてしつこく言っている人間が)今となっては半世紀以上使われ、上記引用元が発刊された1964年においても陳腐になりかかっているだろう「悪魔」の表現を他人へ無闇に浴びせている。
結局のところ、トールキン教授は自分を批判する者が自分よりも鈍感で洞察に劣っていると見なしている時点で、既に見誤っている。教授はこの罵倒を重ねる以前に自然や伝承の中に「本物」を見出すことの肝心さをしつこく繰り返しているが、人工の技がそもそもその「本物」を通じて生まれた、それと同等の「本物」であることを認めようとはしない。
コンクリートの壁、ダンボールの多重構造、エンジンのシリンダー。それらもまたトールキン教授自身が崇拝する自然から、代々の学を志したものが見出したものであって、同じ「本物」が潜んでいる。むしろ、人間の限りある感覚で掴み切れないものを数式や論理で拡張して得たもの成果だ。それはただ自然を見て、情緒を感じるだけとは次元が違う。その拡張的な感覚で「本物」を見た時のエクスタシーは本来の自然を見ることをなお包含して、人間の意気に通じるものだ。
何も科学技術に適ったものではない。まさにカオス系である社会経済の中で新たなビジネスを見出した時。軍隊、国家、企業からサークルに至るまで、人の和を調律せしめた時、あらゆる現代の人為人文の中にもこの「本物」はある。だが、トールキン教授はそれを認めない自分の預かりしらぬ「本物」があることから、まさに逃避している。彼の逃避の本質には多分にこういう側面を含んでいるのである。